まつらの半生〜双極性障害の発症からこれまでの闘病記録〜

メンタルまつらをご覧いただきありがとうございます。

はじめまして、まつらです!

僕はこれまで双極性障害を発症してから、4度の入院と、2度の転職(バイトも含めると3度の転職)を経験し、長い間に双極性障害に苦しんできました。

確かに今思えば苦しい経験でした。
しかし、そんな苦しい経験の中でも、学んだこと、得たことが本当にたくさんあります。

先日双極性障害の当事者の会で僕の闘病体験を話した時には、「すごく励みになりました!」「すごく参考になった」と言ってくださる方がいたり、双極性障害以外の人に話した時には、「まつらさんの話を聞いていると、なんだかすごく勇気づけられます!」と言ってくださる方がいたり、

今までは僕の双極性障害の経験なんて何の役にも立たないと思っていたけれど、最近の活動を通じて、こんな僕の話でも、励まされる人がいるんだという事に気づくことができました。

僕の話が少しでもみなさんのお役に立てればと思い、ここでは、僕がこれまでどんな人生を歩んできたのか、どんな形で双極性障害と向き合ってきたのかを、私まつらの生い立ちから、赤裸々に綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

思い出したくもない社会人1年目〜1回目の休職〜

僕が初めて双極性障害と診断されたのは社会人一年目のことです。

僕は大学卒業後、就職活動の末某大手カード会社に入社することができました。

配属はなんと北海道でした。

自分にとっては未開の地での新しいスタート。

ワクワクと不安が入り混じったような気持ちで始まった社会人1年目。

それが長い地獄の始まりだとはこの時の僕は想像もしていませんでした。

1年目に自分を担当してくれた方とうまくいかず、結果的にめちゃくちゃいじめられて鬱状態に陥ってしまったのです。そして、初めての休職・・・。

社会人1年目でいきなり休職なんて「今後僕の将来はどうなってしまうのだろう・・・」そんな心配もありましたが体が自分の思い通りに動かず、また精神的にもこれ以上やっていくことが難しいと感じてしまい、仕方なく休職をすることにしました。苦渋の決断でした。

これが僕の人生初の休職です。

その後、東京に戻り、両親や友達からたくさんの励ましの言葉をいただいたり、人の温かさに触れることができ、半年の休職の後に無事復職をすることができました。

会社側も事情を考慮してくれて、仕事内容、そして担当者もがらりと変わり、今までの会社に迷惑をかけた分恩返しをしなきゃと、精一杯仕事を頑張りました。

それからは仕事も少しずつできるようになり、毎日清々しい気分で仕事をすることができていたのです。また、彼女もでき、まさに順風満帆な充実した生活を送ることができていました。

「本来の自分にやっと戻ることができた」とすごく清々しい気持ちで、全てのことに対して熱心に取り組めるようになってきました。

しかし、僕が仕事に熱心に取り組めば取り組むほど、育成担当者から怒られることが多くなり、ささいなことから喧嘩をすることが増えてくるようになりました。

しまいには、育成担当者を「今からお前の家に叱りに行く」と怒鳴られるまでに発展してしまい、僕はそれが怖くて家で怯えながら震えていました。

しかし、同時にそんな脅しのような事を言う育成担当者が許せず、次の日の朝礼で、「訴訟を起こして会社を辞める」と怒ってしまったのです。

その結果、上司数人に小部屋に連れて行かれ「ちょっと休んだ方がいいんじゃないか?」と言われ、そのまま精神科に連れていかれました。

人生初の躁状態〜2度目の休職と復職、そして退職〜

連れていかれた精神科で言い渡された病名が「双極性障がい」でした。

そう診断された次の日から人生2度目の休職をすることになりました。

そこから僕の躁状態はどんどんとエスカレートしていきます。

今思えば、休職から復帰し「本来の自分に戻ることができた」と思っていた時から、躁状態が始まって周りの人にとっては考えもつかないような発言や行動をしてしまっていたのかもしれません。

それがもしかしたら育成担当者にとっては目にあまり、親心から怒っていただいたのかもしれない、と今では申し訳なく思っています。

この僕の例のように、最初の躁状態というのはほとんどの人が無自覚で行ってしまっていることが多いのです。

躁状態がエスカレートすると、散財、多弁、多動、観念奔逸(かんねんほんいつ:いろんなことが思いついてしまうこと)などが症状として現れてきてしまいます。

これはあまり、よくないのですが、僕の過去のtwitterやinstagramを見てもらえれば、躁状態にどんな症状がでるのかが分かると思います。

観念奔逸(かんねんほんいつ)とは?

観念が次から次へと現れて、その思考の進行は一見早いが、一定の方向づけがなく、思考目標は交代し、全体としてまとまりがなくなる状態を指します。つまり、次のような状態です。

医師「調子はどう?」

患者「いいですよー、先生。お天気もいいし。でも、もうちょっとラーメン、ラーメン。ハハハ(笑)」

医師「元気だね」

患者「ええ、元気すぎるんですって。母も広島で一人暮らしてるんですよ。(医師のもっているキーホルダーに、りんごのマークが付いているのを目ざとくみつけて)赤いリンゴに、くちびる寄せてー。黙ってみている、青い空。(歌い出す)先生、私好き?」

【引用元:心理臨床大辞典[改訂版](培風館)】

休職中、躁状態がエスカレートした僕は会社を作ったり、実にさまざまな行動を起こし、結果的に色々な人に迷惑をかけてしまいました。

躁状態がおさまってからは、自分が色々な人に迷惑をかけてしまった事への罪悪感から鬱状態になり、どう対処すればいいのかがわからないまま会社に復職しました。

双極性障がいで一番辛い瞬間がこの躁状態から戻り、罪悪感でいっぱいになった時です。

自分が躁状態の時に無意識のうちにやってしまっていた行動で他の人に多大な迷惑をかけてしまった事実を、躁状態がおさまった時に改めて現実を突きつけられることが死ぬほど辛いです。

復職後は、仕事も営業職から事務職へと移してもらいましたが、鬱状態であった僕は、仕事にもならず、半ばリタイアのような形で会社を退職することになりました。

これが僕が経験した人生で初めての退職です。

正式に双極性障害と診断される

会社を退職後、しばらくはまた以前休職した時と同様に引きこもりました。

また、親のすすめで東京大学病院の「心の検査入院」を行い、徹底的に調べられ、正式に「双極性障がい」と診断され、しばらくは静かに療養することになったのです。

しかし、この頃になってもまだ自分が精神病であることを100%受け入れることができず、強い絶望感から、薬を飲む事を極端に嫌がっていました。

あの当時は部屋に引きこもりずっと寝ていた気がします。

しかし、ある時「このままではダメだ」と思い、以前から気になっていたワインのお店でアルバイトとして働き始めることにしました。

ワインの知識はほとんどなく、半ば鬱状態であったため、テキパキと仕事ができる状態ではなかったのですが、同僚にいじられながらも、なんだかんだ楽しく仕事をしていました。

また、何よりそこでのバイトにより、徐々に鬱状態も良くなってきていました。

人生二度目の躁状態〜初めての入院〜

バイトを始めて1年が経った頃でした。

この頃には、鬱の症状も良くなり、アルバイトをしながら普通の生活を送っていました。

しかし、行きつけのダーツバーで知り合った女性とお付き合いをし始めた頃から、また万能感(なんでもできると思い込んでいる状態)、多弁、多動、観念奔逸(かんねんほんいつ)など躁状態の症状が現れ始め、躁状態がエスカレートしていきました。

これが僕の人生二度目の躁状態です。

一度目と同様にさまざまな行動を起こし、人に迷惑をかけた後、それを見かねた父親がメンタルクリニックへ連れて行ってくれました。しかし、そのクリニックには病床設備がなかったため、他の病院に搬送されることになりました。

搬送時は、警備会社に依頼したのか、4、5人の男性が僕の腕をロックし、護送車に乗せられました。意識はぼんやりしていましたが、まるで犯罪者になった気分でした。

病院につくと、いきなり男の看護師さんに取り囲まれてジプレキサ(抗精神病薬)という薬を筋肉注射され、僕はそのまま眠りにつきました。

そこから人生で初めての入院生活が始まりました。

外界の刺激から隔離された入院生活

目がさめると、そこは薄暗い四畳半ほどの部屋でした。

手、お腹、足をベルトで拘束されて、オムツをはかされた状態になっている。それに尿道に管が通されており、自動的に尿が便器に流れるようになっている。この自分の状態に気づくことが最初の苦痛でした。

次図のように、テレビと便器、ベット、内側にノブがないドア(内側から開けられない)しかない殺風景な部屋でした。独房が少しよくなったような雰囲気でした。

しかし最初の1週間は手足お腹すべて拘束されているので、動きたくても動けない、トイレに行きたくてもトイレにいけない、オムツや管でトイレをするしかないという状態でした。

着替えも看護婦さんにやってもらう。食事も看護婦さんがスプーンで食べさせてくれる。もちろん最初の頃はテレビも見ることができない、意識が朦朧としていることで少し苦痛は和らいでいたけれど、自分では何一つ行動できない生活が苦痛でした。

これは後々聞いた話ですが、この拘束生活をする中でエコノミークラス症候群になって死亡する可能性も少なからずあるのだそうです。僕が入院する際、父親もエコノミークラス症候群になって死亡する確率があることに対する同意書を書いたのだそうです。

入院から一週間ぐらい経ったあたりから、お腹、足、手という順番で徐々に拘束バンドが外されていき、全て外れると部屋で自由に動けるようになります。

しかし、部屋の中は動けても、外には出ることはできません。なぜなら、ドアの内側にはノブがなく、鍵もかけられているためです。

幸いこの頃からテレビのリモコンを渡され見る事が許されます。

この頃は、テレビを観るしかやることがないため、一日中テレビを見て生活する日々が続き、日常の頃よりもニュースに詳しくなります。

また、この頃からトイレに自由に行くことやご飯も自分で食べることができるようになり、少し幸せな気分になります。さらには、唯一お風呂の時だけ部屋から出ることができたり、髪をゆっくり乾かしながら看護師さんと少し雑談をしながら、外に出る瞬間がすごく特別な時間のように感じました。

そういった生活を一週間ほど続けると、みなさんが想像しているような病室に移動します。部屋は明るくなり、綺麗になります。しかし、部屋には鍵がかけられているので自由に出る事がはできません。ここが普通と少し違うところです。

以前いた独房のような閉鎖病棟に比べるとすごく環境はよくなったと感じましたし、むしろ明るい所にくるのが久々なので少し嬉しかったことをよく覚えています。

生活は以前とあまり変わらず、テレビを観るくらいしかやる事がないので、一日中テレビを観て過ごす日々が続きます。

一週間ほど過ごすと部屋の鍵が外されて、他の患者さんと交流が許されるようになります。

病院の待合室のような所に約30名ほどの患者さんがいて、各々が本や新聞を読んだり、トランプをしたり、雑談したりしているので、そこに入って自由に交流することができるようになります。

いくつかグループが出来上がっているので、僕も気になるグループの人に声をかけて仲間に入れてもらいました。自分が仲良くなった人の多くは統合失調症で、双極性障害の方がほとんどいらっしゃらなかった事にすごく驚きました。

統合失調症で屋上から飛び降りたけれど、怪我も少なく生き延びたという方。

リストカットを二回もしたという方は、その跡を見せてくれました。

または、思考電波というもので「自分はナースステーションの看護師とつながっていて、看護師に悪口を言われているんだ」という方。

とにかく暇なので、交流が許されてからはいろいろな人と会話をしていた気がします。

みんなちょっと変わっていたけれど、どの方もすごくニコニコと自分の経験を話してくれたことが印象的でした。そのおかげで僕も自分の体験を正直に話す事ができました。

病院のスケジュールは、起床、就寝、三食のご飯以外はほぼ何もないといっても過言ではありません。

唯一あるとすれば病院側が用意してくれる心理プログラムに参加することぐらいです。

心理プログラムは、いわゆる精神障がい者が徐々に社会の普通の生活に馴染めるように組まれたリハビリのようなプログラムです。

精神障がいの薬の効果や睡眠の大切さを学んだり、作業療法士の方が奏でるギターに合わせてみんなで歌ったり、ストレッチをしたりします。

この心理プログラムへの参加はそれぞれ自由で、一日中部屋にこもっている人もいれば、出てきてずっと話している人、病院の廊下をお散歩している人など過ごし方は人それぞれ違ってきます。

そんな日常を二週間ほど過ごすと、次に個人部屋から四人部屋に移動します。後々自分で調べたり、人に聞いたりして分かった事ですが、この部屋移動は、常に他者がいる状態でどうなるかを試すためのものらしいです。

ここで問題なく過ごしていると、外出が許されるようになります。病院の外に三、四時間出て見て様子を見るというものです。外出と行っても、運動することは許されません。むしろ今まで音も気温も一定の世界にい続けたために、外に出るとフラフラして、すぐに疲れてしまいます。

しかし、唯一この外出の時だけは、栄養に気を使われた病院食ではなく、甘いものやラーメンなどを食べることができます。これがとても幸せな瞬間でした。

外出が許されるようになってから病院で数日過ごすと、次は外泊が許されるようになります。外泊は病院の外、つまり自宅に泊まってみて様子を見るというものです。

自宅に泊まるという表現が少しおかしいように思えますが、実際は1〜2ヶ月を病院で生活しているので、自宅が久しぶりすぎて「泊まる」という感覚になってしまうのです。

自宅でありながら、ドキドキするという不思議な心持ちで過ごしていた気がします。

こういった外泊などが問題ないと判断されると、今度は退院となります。

後ほどまた出てきますが、僕はこれまでにこの一連の流れを3回も経験しています。自分が「やばい、躁状態になるかもしれない」という段階で自主的に入院したことから大部屋からスタートしたものも含めると全部で4回もこういった入院を経験しました。

双極性障害の薬を飲むことを受け入れる〜二度目の転職〜

退院後は、自宅でのんびり過ごしながら、転職活動を始めました。

そしてクローズで文具販売の仕事に就くことができました。もともと人付き合いは好きだったということもあり、営業の仕事は僕に合っていてうまくいっていました。

また、最初の入院生活の中で色々時間をかけて自分の精神障害と向き合い、この頃には少し自分の病気について受け入れることができるようになっていました。

自分でも精神障害である自分を受け入れ、しっかりと「治そう」とリーマスという薬を中心の投薬治療もこの頃から積極的に始めるようになったのです。

実は僕のように多くの方が「自分が精神障害だ」ということを受け入れるのに時間がかかってしまうのが実情だそうです。

人生三度目の躁状態〜二度目の入院〜

僕の状態が少しずつ変化してきたのは転職して半年が経過した頃でした。

仕事もバリバリこなせるようになり、上司からも期待され、仕事も順調でした。また、仲が良くなった気になる女性もおり、今度こそこの安定した状態が続くと思っていましたが、入社半年ぐらいから徐々に万能感など躁状態の兆候が出てくるようになり、ついには躁状態に陥ってしまったのです。

今思えば仕事をバリバリとこなしている頃はすごく楽しかった。夜中の2時まで仕事をして、ビジネスホテルに泊まったりして、普通であれば「ブラックだ」と感じる事がすごく楽しく感じていました。たぶんあのあたりから躁になっていたのだと思います。

幻覚を見てしまうほどの強い躁状態でした。

ビジネスホテルのアラーム設定ボタンや、テレビのリモコンと会話をしたり、本当によく分からないような状態になってしまったのです。

結果的にアラーム設定ボタンに「会社に行け!」と言われ、そこからの記憶があまりありません、結果的に会社に行き暴れてしまったそうです・・・。

会社の人に止められてタクシーで家まで送られるも、僕が自宅から脱走・・・結果、警察に保護されて・・・という状態で入院に至ったそうです。

アラーム設定ボタンやテレビのリモコンと会話をしたなんて、後々考えると意味が分からないけれど、当時躁状態の僕からしたら、全てがリアルで真剣だったのだと思います。

新しい目標に向かって頑張り始める

入院生活は、1回目とほとんど同じ状態で始まり、同じプロセスを経て、2ヶ月後に退院しました。

1回目入院した時には「次は何をされるんだろう?」という恐怖心があったけれど、2回目には「次にどういうことをされるのか」が分かったので、少し冷静に入院生活を送っていた気がします。むしろ、交流も少しうまくなり、友人ができた程です。

退院後は転職活動を始めようと思ったけれど、もうすでにアルバイト先に勤め先、計3社に迷惑をかけてしまっているという罪悪感から、転職はもう無理だろうと諦めていました。

それよりも、むしろうんと勉強して、大学院を出て、臨床心理士になろう。僕と同じような精神障がいで苦しんでいる人を救おう。そんな気持ちを持つようになっていました。

しかし、精神障害である過去がある時点で、心理系の大学院に入るにはその過去を隠して入学しなければならないし、その後の学校生活もその過去を隠しながら活動しなければならないと聞き、愕然としました。

どうしても臨床心理士になるという目標が捨てきれず、大学院に入るための予備校に通い始め、勉強を始めました。うんと勉強したら何か道が開けるんじゃないかと思っていました。

そして実際にうんと勉強して、徐々に模試などで予備校の中で上位に入れるようになりました。

実際に有名大学の1次試験の筆記試験を通ることができたことから、臨床心理士になる目標のスタートラインに立つ事ができると自分でも期待を膨らませていた矢先の事でした。2次試験である面接で「研究計画書」が受験した大学と合わずに、落ちてしまったのです。

勉強を頑張っていたからこそ、すごく悔しかったです。僕のやりたい研究は受け入れられないのか。仕事も、勉強も、恋愛も何を頑張ってもすべて壊れてしまう・・・そんな絶望感がありました。

しかし、しばらく落ち込んだ後、どうしても臨床心理士になる目標を捨てきれず他の大学の受験に向けて勉強を再開。そんな時、一心不乱に勉強していた僕の頭の中にふとよぎったのが「起業」というものでした。

僕のやりたいことが大学院に受け入れられないなら、起業して自分でやればいいんじゃないか・・・?

精神障害を隠し通しながら活動するよりも、むしろたくさん勉強して起業してたくさんの人を救える活動をした方が自分には合っているんじゃないか・・・?臨床心理士にこだわる必要がないのではないか?そう思うようになったのです。

僕は臨床心理士としての勉強は続けながらも、少しずつ起業について活動し始めることにしました。

しかし、この時は、躁の魔の手が僕に忍び寄っていました。

起業を決心!人生の再起!〜三度目の入院〜

季節もあってなのか、起業について勉強していくにつれて、また臨床心理士として独自で勉強をすすめていくにあたり、徐々に躁状態は悪化していきました。

しかし今までの躁状態と比べると違っていたことが1つだけあります。

それは自分で「これから躁状態になってしまう」と予兆を感じていたことです。そのため、人に迷惑をかけてしまう事を危惧して親と相談し、自ら5日間、任意入院することを決めました。

任意入院では、医療保護入院と違い、四人部屋からのスタートで、症状もすぐに落ち着き5日で退院することができました。

そして退院後、実際に「精神障がい者を救う」という目標を掲げて、起業をしました。

人生四度目の躁状態〜四度目の入院

起業した際に出会ったのが今のパートナーさんです。

起業した後、社長としてのプレッシャーを感じた僕は「しっかりと会社を盛り上げて、世界一社員が幸せな会社を作るぞ!」と準備を始めました。

僕はあまり覚えていませんが、その時にはもうすでに躁状態に陥っていたのだと思います。

お父さんや協力してくれる友人、パートナーさんに後々聞いたところ、「準備の早さ、行動の早さが尋常ではなかった。普通の社長さんが1ヶ月かけて作り上げるインフラを1日でやっていた感じ」と言われ、自分で自分の行動に驚きました。

結果、会社として準備を進めていくうちに、躁状態がより高まり、4度目の医療保護入院をすることになってしまいました。これが4度目の入院です。

今回はお父さんだけではなく、友人やパートナー、SNS上で繋がっている色々な方に迷惑をかけてしまい、入院中は本当に申し訳ない気持ちと、罪悪感でいっぱいでした。

なんで自分はいつも「頑張ろう!」と活動し始めると躁状態になってしまうのだろう・・・。そんな絶望感でいっぱいでした。

しかし、今回は通常2ヶ月かかるはずが、3週間で退院することができました。医師やお父さんから言われて気付いたのですが「最初に比べて緩やかではあるが大分症状は和らいできている」との事でした。

躁状態と入院を繰り返しながらも着実に症状はよくなってきている。このことが唯一の救いでした。

四度の入院と二度の転職を通じて学んだこと

これまで僕は四度の入院(任意入院を含む)と二度の転職を通して、多くの方に迷惑をかけ、多くのものを失いました。また、自分自身が引き起こし、色々な人に迷惑をかけてしまったという事実がとても悔しかったし、死にたいとも思ったことも何度もあります。

しかし、そんな中多大な迷惑を書けてしまっているにもかかわらず「精神障がいであることも含め、まつらはまつらだよ」と言ってくれる友人や、「徐々によくなってきているからよかったじゃない!あと2回ぐらい入院すれば治るかな!頑張って治そう!」といつも僕を励ましてくれるお父さん。

「これからしっかり会社を盛り上げていきましょう」と言って協力してくれるパートナーさんなど、双極性障害になって失ったものは多いかもしれないけれど、それでも残ってくれる人への有り難さを感じました。

また、4度の入退院を繰り返して、初めて「双極性障害も含めて自分なんだ」と本当の意味で病気を受け入れられるようになったと思います。

まだ完璧に治った訳ではないので、また医学的に完璧に治ることはないとされているので、これから先もしかしたら躁状態にまたなってしまう可能性もあります。

しかし、これまでの入退院によって躁状態になってしまう予兆はある程度自分でも分かってきたし、季節であったり、躁状態を加速させる原因となるものは少しずつ分かってきました。

これからも色々な人に迷惑はかけてしまうかもしれない、、、でも少しずつ自分でも自分の双極性障害への理解を深め、迷惑をかけてしまう前に任意入院などの対策をとっていこうと積極的に考えるようになりました。

病気と共に生きていこうという決心をすることができました。

病気と共に生きていくためには何をすればいいか、今はそういうことを考えながら、お父さんやパートナーさん、友人たちと活動をはじめています。

なぜ僕が1日50円活動をやろうと思ったのか?

双極性障害は医学的に一生治ることがない病気だと言われています。

しかし、世の中には鬱病ほど認知されていない双極性障害をオープンにすることができず、苦しんでいる方がたくさんいらっしゃると思います。

表立って「私は双極性障害だ」と公表している人が少ないからこそ、情報もすごく少なく、また世の中への認知も広まっていっていないのだと思います。

当事者の会で、「双極性障害と公表すると休職を認めてもらえないということから、鬱病にしてもらっているんです・・・」と語っている方もおり、改めて世の中への認知度の低さを感じました。

僕は幸い4度の入退院によって自分自身の双極性障害も含めて、自分なんだと思うことができました。

病気と真正面から向き合うことができました。

僕のパートナーさんは「まつらさんが何の恥ずかし気もなく自分の双極性障害の体験や、病気に負けずに共に生きていこうという姿を見て、勇気をもらった。自分も過去の精神障害が決して恥ずかしいことではないんだ、自信を持って生きていこうと思えた」と言ってくれましたし、とある双極性障害当事者の会で僕の体験談をシェアした時には「すごく参考になった」と感謝してくれる方もいらっしゃいました。

今まで自分の双極性障害の体験談なんて、迷惑をかけただけで、何も世の中の役に立たないだろうと思っていたけれど、僕の体験談が人の役に立つことがあるんだ、とこれまでの経験から学ぶことができました。

また、双極性障害以外でも鬱病や統合失調症、解離性障害などで悩んでいる方や、仕事や人間関係の悩みを抱えている方など「話を聞いてほしくても恥ずかしくて人に話せない」という方はたくさんいるんだという事にも気づくことができたのです。

精神障害で4度の入退院を繰り返していたなんて、普通の人から考えれば「やばいやつだ」と思われて仕方ない程のエピソードだと思います。中には「そんなやばいやつには近づきたくない」という方もいらっしゃると思います。

そういうエピソードを持っているからこそ、何の偏見もなく色々な事で悩んでいる人の話を聞くことができるし、パートナーさんのように「これまで自分は自分が精神障害と診断された時のエピソードを親を含め誰にも話せなかったが、まつらさんが自分よりもすごいエピソードを真剣に語ってくれる姿をみて、自分もまつらさんになら話せると思った」という方もいらっしゃるかもしれません。

僕もかつてはそうでしたが、隠すということはすごく辛いことです。自分で自分の人生を生きていないような、何かの役になりきっていくという感覚です。

そういう誰にも話せないようなエピソードを聞くことだけでもその人は救われるのではないかと思い、同時に僕と同じように精神障害や様々な事で悩んでいる人が、前向きになれるような活動をしていきたいと思い1日50円活動を始めました。

これからは、そういった方の話を少しずつ聞きながら、かつて起業した時に目指した「精神障害者を救う」ではなく「精神障害者が精神障害者ではなく普通の人として過ごせる世界」を目指して、少しずつですが活動を続けていきたいと思います。

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まつら